日本ブラインドサッカー協会(JBFA)理事長の塩嶋史郎です。
日頃より、ブラインドサッカー、ロービジョンフットサルならびに協会活動にご理解とご尽力をいただき、厚く御礼申し上げます。
今回のテーマは「パラリンピックイヤーに思う(初の自力出場について)」です。
初の自力出場へ
昨年11月23日の早朝にうれしい知らせを受けました。
パラパンアメリカン競技大会(いわゆる全米選手権)の結果を受け、日本の自力での出場権獲得が決定したのです。念願の出場枠を掴み取ることができたのです。
男子ブラインドサッカー(*ブラインドフットボール)のパリ2024 パラリンピックの出場国枠は、8か国のみです。
大変な狭き門です。
出場は、開催国のフランス、各大陸枠で1か国<トルコ(ヨーロッパ)・モロッコ(アフリカ)・中国(アジア/オセアニア)・ブラジル(アメリカ)>、それ以外の世界選手権上位3か国<アルゼンチン・コロンビア・日本>です。自力での出場権獲得を誇らしく思います!
東京2020パラリンピックに続き、2大会連続出場となります。
ブラインドサッカー(ブラインドフットボール)は、2004年のアテネパラリンピックから種目として採用されましたが、これまで、アテネ(2004)、北京(2008)、ロンドン(2012)、リオ(2016)と幾度となく出場の高い壁に遮られ、乗り超えることができませんでした。
自国開催の東京(2020)大会を経て、自力出場権を手中にするまで、実に20年の歳月がかかりました。
感無量で、今でもずっと喉元に熱いものが滞留しています。
パリパラへの道は長かったです。優勝国にその出場権が与えられるアジア・オセアニア選手権で決めきれませんでした。また、その場で上位3位までに出場権が与えられる、イギリスのバーミンガムで開催された世界選手権2023でも、日本は即獲得はできませんでした。
しかし、これまでの世界選手権での最高の価値ある5位を確定させ、スケジュールのうえで後に開催されるパラパンアメリカン競技大会の結果を待つことになったのです。上述のとおり「大陸別予選で出場枠を獲得していないチームの中から上位3か国」に該当することができました。
うれしい初の自力出場。
私たちは、皆さまとともに間違いなく新しい「時代の目撃者」「歴史の証人」として、その場に立ち会うことができたのです。
おめでとう、ありがとう
監督、選手、チームスタッフ、ご家族、ブラサカファン、すべての皆さんとともに喜びを分かち合いたいと思います。「おめでとう」と「ありがとう」の気持ちでいっぱいです。
20年間に思いを馳せるとき、草創期からの先哲の「顔」が浮かび、黎明期から先駆者の激励の「声」が聞こえます。そしてずっと今なお、ともに前を向き歩き続ける同志の「姿」が見えます。
あらためてパートナー企業はじめ協賛各社、行政や自治体の皆さま、関係各団体、学校、ボランティアや歴代の運営スタッフ、審判団、医事スタッフ、クラブチーム関係者、地域の方々、周知にご協力いただいた報道関係各位、全国の多くのブラサカファンの力を体で感じています。全員の力で勝ち取った初の自力出場です。心から感謝の気持ちをお伝えします。
これからも競技団体として、課題解決型の事業団体として積極果敢にチャレンジし続けてまいります。パリ2024パラリンピックという未来に向けて、ステークホルダーであり、ブラサカファミリーともいうべき皆さまとともに歩んでいきたいと願っています。
パラリンピックイヤーに思う
1964年10月10日の土曜日、快晴。
先ず思い出すのは、東京1964オリンピックのことです。今でも、はっきり覚えています。私は、小学校4年生で10歳の時でした。午後の1時50分、テレビでの開会式を観るため、背負ったランドセルをカタカタ云わせながら、息を切らせながら走って家に帰ったのをはっきり記憶しています。毎日、オリンピック日記を夢中でノートにつけていました。
でも、小学生の私がパラリンピックの存在を知るのはこの時から少し年月を要しました。
世界で初めて「パラリンピック」という愛称が生まれたのが、1964年の東京大会。 メイン会場は、国立競技場ではなく五輪選手村に練習用としてつくられた織田フィールドでした。
東京2020を前に、幻の映画「*東京パラリンピック 愛と栄光の祭典」を鑑賞する機会がありました。
鼓笛隊のリズムに乗って、車椅子の選手団が競技場を進んでいくシーンが印象的でした。選手のインタビューの中で、戦争、交通事故、労災など車椅子で暮らすわけが明らかになりました。選手村でギターを演奏したり、外国人選手の表情はとても生き生きとしていたのを覚えています。
また、もう一つの「*1964年東京パラリンピック大会記録映画」では、60年前の1964年、11/8~11/12の5日間、21か国378人(日本53人)が参加、9競技はいずれも脊髄損傷者のみであったことを知りました。
映画のはじめには、ルートヴィヒ・グットマン博士の“失ったものを数えるな、残ったものを数えよう”の言葉、エンディングには“さあ、今からだ!”の文字がありました。映画からは、スポーツではなくリハビリの一環だったこと、この記念すべき初となる東京1964 パラリンピックが、いかに先進的で画期的だったかが伝わってきました。そこには、何らかの英断があったはずです。
パラリンピックの起源は、さらに遡ります。グットマンは、1948年ロンドンオリンピックの開会式の日に入院患者を対象としたストーク・マンデビル競技大会を始めたのです。この競技会はその後国際大会として開催されるようになり、参加者数も増えて規模が拡大し、1960年に同年のオリンピックと同じイタリア、ローマで開催された国際ストーク・マンデビル車椅子競技大会が、のちにパラリンピックへとつながっていきます。
Paralympic(パラリンピック)という名称は両下肢麻痺者「Paraplegia(対麻痺者)」によるオリンピック「Olympic(オリンピック)」という2つの言葉をつなげて、東京大会の際につけられたとされています。
パラリンピックという呼称にもドラマがあったのです。
パラリンピックのこれから
東京2020パラリンピックでは、22競技、539種目が行われました。
アテネ2004から採用されているブラインドサッカー(ブラインドフットボール)ですが、障がい者サッカーとしてパラリンピック種目として存続していくためには、競技人口が増えること、スポーツとして魅力を持ち続けることが重要になってきます。
また、同一種目で、男子・女子の競技がともに存在することも大事な要素となってきます。女子ブラインドサッカー(ブラインドフットボール)が、パラリンピック種目に採用されることが望まれます。ロサンゼルス2028パラリンピック大会での導入も検討されています。昨年の世界選手権2023では、初の女子カテゴリーの大会が開催されるなどその基盤づくりが着々と進んでいます。
オリンピックの個人競技の団体戦では、すでに男女混合種目が追加されたり、導入される流れにあります。
初の自力出場を果たすまでの20年の時間は、一昨年20周年を迎えたJBFAの活動とも重なります。
障がい者スポーツに関して、私たちを取り巻く環境や関係先も、変化していきました。かつては厚生省(現 厚労省)が、リハビリ、社会復帰、福祉、社会参画、障害者雇用という文脈で管轄していたと思います。それから、文部省(現 文科省)では、教育、体育、障がい者理解、多様性、共生社会という領域になります。さらに、スポーツ庁となり、アスリート、競技、スポーツ、試合結果、勝利、セカンドキャリアとその視点も変遷をしています。新聞で掲載される紙面も、社会面からスポーツ面に変わり、取材していただく記者の方も社会部から運動部へと移ってきました。
競技をスポーツとして見ていただけることをうれしく思います。車椅子テニスのレジェンド国枝慎吾さんの「スポーツとして見てもらえるよう、世の中の目を変えたい」という社会側の目線を変えたいという視点と重なります。
そして、もちろんパラリンピック種目だけがパラスポーツではありません。
メダル獲得をめざして
いよいよ今年はパラリンピックイヤー。
日本は、最新の*世界ランキングでは3位となりました。
パリ2024では、*メダル獲得をめざします。着実に強化を重ね準備を進め、さらに強い日本代表、愛される日本代表をめざしてまいります。熱いご声援をよろしくお願いいたします。
今夏、すべての皆さまと喜びを分かち合いましょう!
*ブラインドサッカー男子 世界ランキング(IBSA発表/2024年1月1日付)
注釈:
*通称ブラインドサッカーは、パラリンピック種目の正式名称は五人制サッカー(Football 5-a-side)でしたが、2022年からはブラインドフットボールとしている。
*ブラインドサッカー男子 世界ランキング(文中の表参照)
出典:https://blindfootball.sport/results-and-rankings/world-rankings/ (World rankings/IBSA Men´s Blind Football World Ranking)
*ブラインドサッカー男子日本代表 世界ランキング推移(文中の表参照)
*ブラインドサッカー(ブラインドフットボール)パラリンピック結果(文中の表参照)
出典:https://blindfootball.sport/results-and-rankings/historical-results/ (Men's Blind Football Results/Paralympic games)
*参考映画
・「東京パラリンピック 愛と栄光の祭典」
渡辺公夫監督、音楽は團伊玖磨、ナレーションは宇野重吉、モノクロ63分、配給はKADOKAWA
・「1964年東京パラリンピック大会記録映画」
提供はNHK厚生文化事業団